『松本人志』「65歳で芸能活動をやめたい」森喜朗に自分を重ねる?

松本人志さんの連載は、1993年から2年間、「週刊朝日」で掲載された。書籍化もされ計400万部以上の大ベストセラーを記録した。連載中に起こった大地震のこと、そして長い年月が経ち、57歳になった松本さんの思いは? 当時の連載担当、矢部万紀子さんに明かしてくれた。

連載期間中の95年1月17日、阪神・淡路大震災が起き、松本さんもすぐに取り上げた。

目が覚めてつけたテレビに映った光景。見覚えのある建物や高速道路や公園がぐちゃぐちゃになっていた、と書いた。

<血の気が引くというのは、まさにあのことだろう。冗談でもなんでもなく、オレは戦争が始まったと思った。そして、それが地震だとわかったとき、次の不安は、こんな人でなしのオレでも、尼崎にいる両親の生存である>。なかなかつながらなかった電話がやっとつながった。

<物は倒れてくるわ、壊れるわで、それなりの被害はあったようだし、あの日からいまだに(二十二日現在)ババアは風呂にも入ってないらしい(まあ誰に抱かれるわけでもないし、かめへんかめへん)>。ババアとは母のこと。ほぼ全編お笑い論の連載にあって、例外が「ババア」だった。

<オレは、テレビでよく母親のことを口にする>で始まった回は、小学3年の時の思い出がつづられていた。足が痛くて歩けない松本さんを、母が乳母車に乗せて何度も病院に通ったという。最後の文章はこうだった。

<オレは、ただ単純に、ババアが今よりももっとボロボロになったとき、今度はオレが代わりに、その乳母車を押してやろうと思っているだけである>

松本さんにとって、連載はどんなものだったのか、改めて聞いてみた。「最初は怒りのままに、書きたいことを書いてました。それで芸能界にいられなくなってもいいやと思っていたし、だから本のタイトルを『遺書』にしたんです。40歳で(芸能界を)やめるって書きましたよね。もう57歳になりましたけどねー」

連載後半は無理やり怒りを煮えたぎらせていた感じがあり、続けるのは難しいと思ったという。その頃、松本さんは「書くことがお笑いの邪魔になる気がする」と言っていた。見る側が「意味」を読み取ろうとする、と。そのことを話すと、「今もあんまり変わってないですね。何しても深読みされますから」。折々のニュースと自分のツイートが重ねられるから、ツイートする前にニュースをチェックするという。

そういうことの始まりが連載だったのでは、と尋ねた。「そうでしょうね。でも、僕の人生、ずっとそうじゃないですか」と返ってきた。映画だって、深読みされ過ぎる、でも自分で招いたことだし、そういう人生ですよ、たぶん、と。

松本さんは自分のことを「サブカルチャーの人」だと言った。「そんな人がなぜずっとテレビでやってこれたんか、不思議なんです。それに対する後ろめたさみたいなものがあって」。本来自分は地上波に出て、稼ぐような人ではない。それが申し訳ないと思う部分もある。だから「そういうところに戻りたいという気持ちもあるんですよね」。

「そういうところ」とはどういうところかと尋ねたら、「やりたいことしかやらない(場所)」。それが答えだった。

ややあって、「でも、本当に自分のやりたいこと、やってないんですよねー」と松本さん。映画はやりたいことだった、でも、当たるわけがない。松本人志監督となるから人は来るが、メジャーでない自分が撮るものだ、大抵の人は理解できない。しごく当然だ。

「だったら本当に低予算でひっそり撮りたいなと思う気持ちは、ちょっとあります。だけど、それも映画じゃなくて、スマホで撮れるんちゃうかなって思いますしね」

65歳で芸能活動をやめたい。今回、松本さんはそう言った。現在57歳、あと8年。なぜ?

「今回の森喜朗さんを見たりすると、『IPPONグランプリ』のオレもこんな感じかなーって思うんですよね」。芸人が大喜利を競い、松本さんが解説をする番組をあげた。

釈明会見で森さんが言った「老害」という言葉、ネットニュースで松本さんに使われたことがある。若くしてブレイクした人間の宿命だと、松本さんもわかっている。だから「57歳で還暦近いは早過ぎるやろって。例えるのもおかしいけど、政治家でいったらめっちゃ若手やしね」とも言うのだ。

また文章を書いて連載するというのはどうですか。最後に尋ねた。

「ゼロではないですけどねー。いろんな(発信の)やり方があるからなー。過渡期ですよね。あと2年くらいしたら、いろんなことがはっきりしてくるんじゃないですかね」

テレビも自分も。そういう答えだった。

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