師匠のいない「NSC1期生」ダウンタウンの苦しかった下積み時代
PREJIDENT
色々歴史があるが、吉本興業にとってダウンタウンの出現、存在は莫大な影響が今もあるのでしょう。まさにダウンタウン以前かダウンタウン以後か大きく違うのだろう。

吉本興業元プロデューサーが明かす

吉本興業が運営する芸人の養成所・NSC。漫才ブームに乗って設立され、1期生としてダウンタウンやトミーズなどのコンビを輩出した。同社でプロデューサーを務めた竹中功氏が、NSCの設立秘話と知られざるダウンタウンの下積み時代を紹介する――。

「学校つくれや!」の一言でNSC設立
「竹中、商品(芸人)が足りへんから学校つくれや!」

当時、担当役員だった中邨にそう言われたのは、入社した年の10月のことだった。宣伝広報室に配属されてから、3カ月目。『マンスリーよしもと』の編集長になったのと同じように突然、そう告げられたのだ。

「そんなこと言われても無理です。ボクはまだ芸人さんと話したこともほとんどないくらいですし、お笑い芸人なんかつくれるはずがないですもん」
「大丈夫や。この会社で芸人をつくった社員なんか誰もおれへんのやから、誰がやってもいっしょや。せやから、お前、やっとけ」

言ってることは、上司の冨井と変わらない。どうもこの2人の上司のコンセプトは、いっしょのようだった。誰もやったことがないから誰がやってもいっしょだという理屈はどうかと思う。そんな言葉に納得できるはずがない。とはいっても、私はサラリーマンだ。上役の命令は絶対だと思っていたので、拒むことはできなかった。

正式名称は「ニュー・スター・クリエーション」
どうしてNSCをつくる発想が持たれたのかといえば、中邨さんの言葉どおりだ。

前年から漫才ブームになっていて、人気芸人たちはテレビに引っ張りだこになっていた。そのため、大阪や京都の花月劇場に立てる芸人の数が足りなくなっていたのだ。ザ・ぼんちの花月の出番に穴があいて、やすきよが代わりに舞台に立ったこともある。格上の先輩芸人が代役を務めるというのは、通常はあり得ない。にもかかわらず、やすきよという大御所が拒まず代役を引き受けてくれたほどの非常事態になっていた。

ブームというものは長続きしないので、漫才ブームも翌年には下火になっていく。しかし、この時点ではまだ需要も多かったので、芸人を増やすことを急ぎたかった。そういうタイミングでの設立だったのだ。

NSCとは、ニュー・スター・クリエーション(New Star Creation)というベタな和製英語の略称である。

総責任者は冨井で、もう一人の私の上司と私の三人で設立にあたることになった。ちなみに、一期生のうち「トミーズ」は、冨井さんの名前からコンビ名をつけられている。

徒弟制度から養成所の時代へ
NSCができるまでは、芸人になるためには誰かの「弟子」になるのが一般的だった。たとえば紳助は、B&Bの島田洋七に憧れ、その師匠である「島田洋之介・今喜多代」に弟子入りしてデビューへの道を拓いた。

弟子入りをしないで芸人を目指す場合は、劇場で「進行係」などの仕事に就いてチャンスを窺うことになる。松本竜介は、花月で幕引きや道具の出し入れ、芸人への出番の伝達などの係をしていたことから紳助とコンビを組むことになっている。

養成所は、芸人を目指すための第三の道になった。

弟子入りしたり進行係を務めるというのは、古いしきたりのようなものだ。入学金などを払って学校に入ることで芸人になれるのであれば、芸人志願者としては手っ取り早い。養成所をつくるやり方は、芸人を増やしたい事務所の側から見ても、芸人を目指したい志願者の側から見ても、画期的なシステムといえる。

NSCから誕生していく芸人たちは、師匠から引き継ぐ屋号を持たないという意味で「ノーブランド芸人」と呼ぶことにした。当時、流行り出した「無印良品」からヒントを得て私がつけたものだ。

NSC1期生がこれだけ成功できた理由
NSCから多くのノーブランド芸人が生まれていったのは、ご存知のとおりだ。

1期生にはダウンタウン、トミーズのほかに、「ハイヒール」や吉本新喜劇で座長を務めることにもなる内場勝則らがいた。

トミーズ雅は、プロボクサーとして日本スーパーウェルター級一位にもなっていた男なので、入学式のときにもマスコミから注目を集めていた。

学校をつくって“何を教えればいいのか”といったことも、最初はわからなかった。そのため先発の養成所を参考にして、コースや授業内容を考えた。

NSCの設立以前にも大阪には、ミヤコ蝶々が校長となった「蝶々新芸スクール」、松竹新喜劇の曾我廼家明蝶が設立した「明蝶芸術学院」があったほか、松竹芸能もタレント養成所(「松竹芸能タレントスクール」の前身)を設立していた。お笑いの養成所をつくるのは、吉本が日本ではじめてではなかったのだ。先に言うと、NSC1期生からこれだけの成功者を出せた理由はひとつ、「追いかける者は強い」ということだ。先発の3つの養成所を追いかけながら、参考書によくある、マーケティング戦略立案における環境分析ステップとしての「SWOT分析」をなぞってみただけである。

デビューまもないダウンタウンのネタ
NSCにとって大きかったのは、1期生からダウンタウンやトミーズ、ハイヒールが出たことだった。彼らの成功を見て、NSCに入ろうと考える志望者は増えていったのだ。

もしNSCの設立が1年遅れて、ダウンタウンの2人が受験してきていなかったなら、どうだったろうか? 現在のようにNSCは機能していなかったのではないか、と思う。

ダウンタウンは、デビューまもない頃には次のような話をネタにしていた。

「ボクらはね、漫才ブームを見て、この世界に憧れてNSCに入ったんですけど、漫才ブーム行きのバスに乗れると思うてたら、乗り損ねてたんです」

NSCを設立した頃、漫才ブームは下火になりかけていた。あと1年、設立が遅かったなら、NSCに入学することが「ブーム行きのバス」に乗ることだとは、考えなかったはずだ。だとすれば、乗車もしていなかった可能性も大きい。しかし、このネタには2人らしいオチが付く。

「乗り損ねたバスなんですが、よぉ見たら谷底に落ちてましたわ」

タクシー代が惜しくて朝まで歩いた
ダウンタウンの2人がNSCの面接に来たときのことは、よく覚えている。ボウル吉本の中にあるフルーツパーラーを面接会場にして、新入社員の私も面接官になっていた。

当時、五分刈りだった浜田雅功は、競艇学校の入学試験に落ちていて、うめだ花月の前の看板を見て、NSCの開校を知ったのだそうだ。それで、中学時代の同級生である松本人志を誘って面接に来ていた。

面接といっても、ネタを見たりするわけではなかった。入社10カ月ほどの私ができるわけがない。「キミら、月謝は払えるか?」と聞いただけだ。

入学金は3万円で、月謝は1万5000円。それで2人は「はい」と返事したので、一応、上司にも伺いを立て「月謝が払えるならええやろ」ということで、私が「合格」を告げた。

だが、3カ月分は前払いしていた彼らも、4カ月目からは月謝を払わなくなった。それで2人には、冨井がバイトができるスナックを紹介している。

ふだんは最終電車で帰るようにしていたものの、遅くなったときには、自宅のある尼崎までの車代にと、店のママが一万円を渡してタクシーに乗せてくれていた。そうすると2人は、いったんタクシーで走りだしながらも、角を曲がり、ママから見えなくなったらすぐにタクシーを降りていた。いうまでもなく、お金が惜しいからだ。2人は朝まで、とぼとぼと街を歩いていたようだ。ダウンタウンの2人にも、そんな時代があったということだ。

「松本・浜田」から「まさし・ひとし」になり…
NSCの授業は、ボウル吉本の1階にあったゲームセンターをつぶしてつくった稽古場で行った。

殺陣やダンス、声楽などの授業をラインアップしていた。当然、漫才などもやらせていたので、私も一緒になってネタづくりなどをやっていた。

コンビなどができはじめた頃からは「NSC寄席」を始めて、生徒の友だちにも声掛けして、一般のお客さんにも見てもらえるようにした。

松本と浜田のコンビ名は、最初は「松本・浜田」だった。その後、「まさし・ひとし」、ライト兄弟など、いくつかコンビ名を変えてから、ダウンタウンに落ち着いた。

まさし・ひとしというコンビ名をつけたのは、フジテレビ系列の『笑ってる場合ですよ!』のスタッフだった。なぜだか浜田は「まさとし」でなく「まさし」にされていた。生放送が始まる寸前まで、同席していた私は「松本・浜田」を推したのだが、受け入れられなかった。そのためでもあったのか、おそらく、自分たちでは「まさし・ひとしです」と名乗ったことはないはずだ。

彼らは当初、コンビ名の不要を唱えていたのだ。だから、コンビ名をつくることをまったく急いでいなかった。

「カネになり才能溢れる商品」にした大崎会長
2人の素質は、やはり高かった。明石家さんま、オール巨人、島田紳助の3人がNSC寄席を見に来てくれたとき、「1組だけすごいのがおるな」と意見が一致していた。

竹中功『吉本興業史』(角川新書)
竹中功『吉本興業史』(角川新書)
ただし、NSCを卒業したあとは、ダウンタウンよりトミーズが評価され、賞レースでも結果を出していった。どうして逆転現象が起きたのかといえば、トミーズの漫才は万人受けするものだったのに、ダウンタウンの漫才は客を選ぶタイプのものだったからだ。それでも、2人は一般ウケを狙って迎合はしなかった。独自の路線を貫いていたことが、現在の地位につながっている。

大﨑現会長は、NSCの中でダウンタウンが頭角をあらわしだした頃、東京から大阪に戻りNSCを担当するようになり、2人の面倒をよく見ていた。ダウンタウンを生み出したのはNSCであっても“カネになり才能溢れる商品”にしていったのは大﨑だったといえる。

そこには純粋な「ファミリー」があった
吉本にとって、1期生の存在は大きかった。彼らもまた、あの時代を大切にしてくれているようだ。

2008年(平成20年)9月、冨井が定年退職で吉本を離れることになったときには、1期生が自発的に集合をかけて「冨井さんを送る会」を開いてくれた。芸人にはならず、一般社会で働いていたNSC同期の人間も含めて30人くらいが集まった。

伝説の1期生が集まるとなれば、それぞれのマネージャーをはじめ、吉本のスタッフは、誰もが参加したがったのだが、シャットアウトした。芸人ではない吉本の人間で参加したのは冨井と私だけだ。2期生からは小間使い的な意味で2人ほど参加して、あとは1期生ばかり。「仕事で行けない」と言っていた松本も、途中で顔を出していた。

あのときのあの居酒屋には、ヘキサゴンファミリーにも似た純粋な意味での「ファミリー」があった気がする。

なつかしく、幸せな時間があったのだ。

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