ノブコブ徳井が相方・吉村との20年を語る「殺意」はやがて「感謝」になった…

やっぱりどう考えたって、お笑い芸人はかっこいい。

平成ノブシコブシ・徳井健太がお笑いについて熱く分析する連載「逆転満塁バラエティ」。

第2回目は相方の「吉村崇」について。

平成ノブシコブシ・徳井健太がお笑いについて熱く分析する連載「逆転満塁バラエティ」。

第2回目は相方の「吉村崇」について。

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コンビは15年で「兄弟」になる
まず、最初に言いたいのは、コンビは友達じゃないということ。コンビを夫婦に例える人もいるがこれも違う。

私が思うに、コンビは兄弟だと思う。

姉妹や姉弟、兄妹とも違う。男同士の兄弟。これにコンビというのは酷似している。……と言っておきながら私には兄や弟がいないので本当のところは分からない。けれど個人的世論調査結果で考えると、コンビは兄弟。

兄弟は仲が悪い。もちろん逆に仲の良い兄弟もいる。けれど兄弟の8割以上は仲が悪い。仲が悪いとはいっても血が繋がっている。血は繋がっていなくても、家族だったりする。だから仲が良かろうが悪かろうが他人には一切関係ないし、何かを言われる筋合いもない。

思春期を迎えて以降、一緒に買い物に行く兄弟なんてほとんどいないし、恋愛相談するような兄弟もいないだろう。連絡なんて親族の冠婚葬祭くらいだろうし、子供の頃は殺し合いに近いような喧嘩もしていたはずだ。

そういった期間を経て、60歳も過ぎたあたりに二人きりで酒を飲み交わすような関係になる――それが兄弟だ。どんなに仲が悪くても、縁までは切らない。そのこと自体が面倒だろうし、関わらなければ別に兄弟でも構わないのだ。

コンビの仲もそれと同じだ。家族だから、兄弟だから、コンビだから。だから、仲が悪かろうが解散などしない。

もっと言えば、コンビは結成15年以上になると兄弟になる。そうなると、相方がどうなろうと知ったこっちゃないし、好きなようにしていたらいい。いつまでもわーわー言ってくる兄貴は嫌われる。ぶつぶつ文句を垂れ続ける弟には腹が立つ。

1度目の“解散”直後の雀荘で…
僕と相方の吉村崇がコンビを組む「平成ノブシコブシ」は今年でちょうど結成20年、5年前から我々は、兄弟になった。

過去に解散の危機は何度かあった。というか、僕は常に解散しようと思っていた。だから吉村から「解散だ」と大きな声を出されたら、すぐに「分かった」と言うようにしようと決めていた。

最初に「解散だ」と言われたのは、コンビ結成5年目くらいの頃か。僕が寝坊をしたせいで起きた喧嘩だった。今改めて考えなくても分かる、全部僕が悪い。悪いが、もう辞めようと決めていたので、吉村から大きな声で「解散だ」と言われた時、小さな声ですぐに「分かった」とだけ言った。

その後新宿で麻雀を打ちながら「あー、これでようやく自信のないお笑いを辞めることができるなぁ、この先の人生は何をしようかなぁ」そんなことを考えていた。

対面からロンの声が上がった時、携帯電話に着信があった。吉村からだった。対局を止め、一旦店を出る。古いビルの、白い壁紙がヤニで黄色くベタついた薄暗い階段の踊り場みたいな所で電話に出ると「ごめん」と謝られた。続けて「もう一度頑張ろう」と言われた。僕はまた小さな声で「分かった」とだけ言った。ヌルッとしたドアノブを捻り、止まっていた卓に戻り再び麻雀を始めた。

2度目の“解散”を止めたものとは
次の解散騒動は8年目くらいだったろうか。

原因はもう覚えていない。だが当時のマネージャーも同席していたので前回のようなノリとか勢いではなく、お互いにしっかりと「解散しよう」と思っていたんだと思う。

当時「ラ・ゴリスターズ」というお笑いユニットを組んでいた。ハイキングウォーキング、ピース、イシバシハザマと僕らの4組でコントやトークをする臨時同盟だ。

そのユニットでCMもしていた。だから解散となると、そのCMの違約金が発生するから会社として認めるわけにはいかない、と当時のマネージャーは言った。

「じゃあそれを払うから、幾らか教えてくれ」

僕が言ったのか吉村が言ったのかは記憶にないが、当時のマネージャーを二人で問い詰めた。だが「それは教えられない」の一点張りで、結局その場で解散ということにはならなかった。

きっとCMの違約金を教えなかったのは、僕らの解散を止めるためだったんだろうな、と今は思う。というか、CMもしっかりとしたものではなかったので、そもそも違約金などなかったのかもしれない。ともかく、その当時のマネージャーじゃなかったら、きっとあの時平成ノブシコブシは解散していたと思う。

売れたい相方、面白いと思われたい自分
コンビ結成10年目、M-1グランプリのラストイヤーを迎えた。現在は芸歴15年目がラストイヤーだが、当時は芸歴10年がM-1グランプリの最終エントリーの年だった。

芸人になって10年やっても芽が出なかったら辞めたほうがいい――M-1の生みの親である島田紳助さんのそんなメッセージがこめられた芸歴10年という縛り。僕らも他のコンビと同様、決勝に出る為のネタ作りに勤しんだ。

そこで方向性による揉め事が度々起きた。大雑把に言えば吉村はとにかく「売れる為」、僕は売れるよりも「面白いと思われる為」のネタを作りたい。……二人の溝はドンドン大きく深くなっていった。

だがこれは、どのコンビにも起きることだ。お笑いの大会で賞を獲る為に作品を生むのは間違っている、と今でも思う。結果賞を獲ったなら、それは素晴らしいことだが、狙いにいって獲った賞に価値はない(長くなるのでこの話はまた別の機会に)。

ともあれ結果、平成ノブシコブシは一度も決勝に行けず、M-1グランプリから消えた。

相方・吉村に抱いた殺意
ついでなので、我々がまだ兄弟じゃなかった頃に、僕が覚えた三つの殺意について書いてみる。

あれはコンビを組んで1年経つか経たないか、まだ初々しい20歳前の頃。吉村が書いてきたネタの通りに練習をしていたが上手くいかず、吉村が大きなため息をつき持っていたペンを置いた。

「あーあ、俺が2人いたら良かったのにな」

僕はその時彼に、最初の殺意を覚えた。

2つ目は、前述の「ラ・ゴリスターズ」解散事変の時。「解散だ解散だ!」とまるで国会のように楽屋で激昂しながら吉村がいった一言。

「お前の大喜利を面白いと思ってる奴なんて、一人もいねーからな」

殺意と共に、どんなにつまらなくても僕はこの男より大喜利は面白くなろうと心に刻んだ。

3つ目、M-1グランプリの出場資格もなくなり、次の目標はキングオブコントとなったコンビ結成12年目頃。

品川よしもとプリンスシアターというホテルに併設された劇場で、大阪から来た後輩たちとライブをやった後。お疲れ様でした、と各々が挨拶をし合う中、若手と喋っている僕に向け、また激昂した吉村が叫ぶ。

「ボケもツッコミもトークもできなかったら、お前何ができるんだよ!」

あの時、ナイフを持っていなくて本当に良かった。

転機となったマツコ・デラックスの番組
そんなこんなで僕は彼に対する殺意をモチベーションに、15年目まで芸人を続けてきた。芸歴10年を超えたあたりから、仕事は多少なりとも増えていった。

大きなきっかけとなったのは10年近く前の「(株)世界衝撃映像社」という海外ロケ番組。当時今ほど売れていなかったマツコ・デラックスさんをMCに置くというとても攻めた番組だった。多額なロケ費用の割に視聴率が取れない、という悲しい理由で呆気なく終わってしまったが、あのままあの番組を続けていたら、きっと誰かが死んでいたとも思うので、それはそれで良かったのかも知れない。

あの番組で核となっていたのが、自分で言うのも何だが僕らのやっていた部族ロケだ。世界中のいろいろな部族を訪れ衣食住を共にし、最後は涙のお別れをするというクレイジーなウルルン滞在記。

クレイジーで企画自体はさっくりしていたけれど、スタッフさん方の編集と台本と、僕らの粘り強さのお陰で徐々に風向きが変わっていった。特に、僕への風向きが変わっていった。

「なんだ、徳井って頭おかしいけど、面白い奴なんじゃん」

これが大きなきっかけになり、「ピカルの定理」というフジテレビの番組にも参加できることになった。期待の若手が集められたコント番組で、この「ピカルの定理」が終わってしまうのが芸歴12年目くらい。そう、品川よしもとプリンスシアターで僕が吉村に激昂された頃だ。

世間では順風満帆に見えたかもしれないあの頃も、僕は相方に絶賛殺意抱き中であった。

相方ほど無謀な男は見たことがない
だが、平成ノブシコブシというコンビは、やはり吉村が核だ。それは100%間違いない。

彼がキングダムの戦闘シーンのように、一人敵陣に乗り込んでいく時――例えば笑いなど起こりようもないほどの無茶ぶりにも、恥を恐れず果敢に笑いを取りに行く時――に溢れる闘気。それが世間には、きっと光り輝いて見えたんだと思う。

あそこまで無謀な男は見たことがない。

きっと最初はみんな鼻で笑っていたに違いない。

「ふふふ、どうせいつか死ぬさ」

そんなふうに思っていた同業者も少なくなかったろう。ところが主人公・吉村は、死ななかった。それどころか、傷つき倒れるたびに強くなっていった。強くなるというのは、お笑いで言えば面白く、上手くなっていったということ。

すると周りからの評価も上がっていき、吉村も自分に自信が持てるようになる。その好循環の結果、今の活躍に至るわけだ。

僕が一度“死んだ”日
その中でも、私が隣にいて一番輝いて見えたのは「はねるのトびら」に出演した時だ。キングコング、ドランクドラゴン、ロバート、インパルス、北陽、というスター芸人がレギュラーの人気番組。

最初はコント中心だったが、ゴールデンに進出するにあたりゲームバラエティ番組になっていった。

ワイワイ楽しいゲームコーナー。

なんてことはない、と思うだろう。だが芸人からすると、逆にコントの方が楽なのだ。コントは最初から笑いを“内臓”させておけるから、道中が大変だろうと、面白く考えられた脚本がある限り、面白くなるに決まっている。

ところがゲームコーナーは違う。こうなれば面白いだろう、ああなれば笑えるだろう、というスタッフさんの算段はあれど、実際やってみなければどうなるかは分からない。

結局出たとこ勝負になる。

よく笑いの神様が降りる、みたいなことを言うが、あれは嘘だ。頑張った人が、頑張り切った時に笑いが起きているだけなのだ。

だから吉村の上には当然、笑いの神が舞い降りる。片や腐っていた僕は、そりゃひどいもんだった。何もできなかった。いや、何かをしようとさえしなかった。

番組終わり、演出ではあるけれど、レギュラーメンバーたちがゲストであるはずの僕に散々罵倒を浴びせてきた。その落ち込んだ背中に、珍しく吉村が優しい声をかけてきた。

「正直、ウケるウケないなんてどうでもいいんだけど。でも、心が折れてたでしょ? 途中でポキッと折れてた。分かるけど、プロならやりきらなきゃダメだよ」

心臓を貫いた一言だった。

全くその通りだと思ったから。

北風と太陽の如く、僕の持っていた人を傷つける為のナイフは、彼の優しい思いやりの一言に折れた。

あの日、僕は一度死んだ。

「365日のうち、360日はつまらない」
「ピカルの定理」が終わった頃、キングオブコントという目標はあったものの、いよいよテレビでのコンビの仕事は少なくなった。そして、元々器用だった吉村は、あれよあれよと売れていった。犠牲心も身に付けていった。

お陰でストレスのかかる仕事も増えていったのだと思う。オイシイところはアイドルやモデル、役者に取られ、自分は散らかった番組の後始末。そこを評価してくれる関係者は沢山いたろうが、自身の心に当然負担はかかってくる。

その頃吉村がラジオでポロっと言った。

「365日あったら、360日はつまらないよ」

僕はある程度予想していたから笑ったが、他の共演者は引いていた。あんなに楽しそうにしていて、お金も持っていて女性にもある程度困っていなくて良いところに住んで良い車にも乗っているのに? ほとんど毎日がつまらないだなんて。そんな、バカな。

コンビ結成20年たった今、吉村がたまに口にする。

「全芸人の中で、徳井の生き方が一番良いんじゃねぇかな。普通よりは金は稼いで趣味の仕事もして、たまにストレスのかかる本格派バラエティにも呼ばれて、休みもちょこちょこある」

なるほど、確かにそうかもしれない。

実際、最近は毎日が楽しい。目標も持てるようになったし、後悔や反省をしながらそれでも前に進めるようになったのも大きい。吉本から多額の借金はしているが、生活に困らないくらいのギャラも頂いている。

だが吉村よ、君が僕の立場だったらとっくに死んでいたと思うよ。

今の僕の立ち位置は確かにある意味でいいかもしれないけれど、20代の頃の僕の立場にあなたがいたら、きっと死んでいた。それくらいプライドは切り裂かれたし、未来も希望も一筋の光も見えなかった。

仲良しアピールはいらない
けれど、僕の今があるのは確実に吉村のお陰だ。

兄弟喧嘩は忘れない。ただ、時が経てば恨みも薄まる。だが絶対に消えることはない。でもそんなことも、いつか笑って話せるようになる。

自分の母親や父親が死ぬまで連絡も取らない、顔も合わさない。そんな兄弟が、その葬式で何十年ぶりかに会って笑いながら酒を飲む。

それでいい。

ベタベタ仲良しアピールなんていらない、本音で生きていたらそれで充分だ。
他人にとやかく言われたくはない。

兄弟ってのは、二人にしか分からないもので、二人にも分からないものが沢山あって、それでいいんだ。

吉村、ありがとう。

徳井健太(とくい・けんた)
1980年北海道出身。2000年、東京NSCの同期生だった吉村崇とお笑いコンビ「平成ノブシコブシ」結成。「ピカルの定理」などバラエティ番組を中心に活躍。バラエティを観るのも大好きで、最近では、お笑い番組や芸人を愛情たっぷりに「分析」することでも注目を集めている。趣味は麻雀、競艇など。有料携帯サイト「ライブよしもと」でコラム「ブラックホールロックンロール」を10年以上連載している。「もっと世間で評価や称賛を受けるべき人や物」を紹介すべく、YouTubeチャンネル「徳井の考察」も開設している。

 

 

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